川原泉『バビロンまで何マイル?』-KawaharaIzumi-
白泉社文庫1997年

平凡な高校生仁希と友里は、子供の頃雑木林で助けたノームに不思議な指輪をもらう。その指輪がきまぐれに光った時、有無を言わさず二人をランダムな時代と場所へ送ってしまうというとんでもないお礼の品だったのであった。
生活苦を乗り越えて情熱的に現実主義をつきすすむ図書委員長仁希と、幼馴染で女性にもてるがどこか辛辣なロマンチシスト友里の二人がまず最初に飛ばされたのはまだ人間のいない6500万年前の中世代。そこには全盛期の恐竜達が!二人の草や魚を採取してのサバイバル生活が始まる。

次に飛んだのはルネッサンスのイタリア半島。聖堂で悲しい祈りを捧げていたうら若い女性は名をルクレツィアと言った。歴史の動乱期に舞い下りてしまった二人はちゃっかり客分として居座ってしまう。 世界史教科書の知識だけで現状を把握しその時代で就職までしてしまう二人の生活力とは一体・・・。

この作品は半分しか単行本化されていない。1巻のいいところで切られてしまったまま2巻目が出るのを心待ちにしていたのに、どういうわけか出ない。「メイプル戦記」の連載が忙しくなったからバビロンは中断しているという噂を聞いて諦めかけていた頃文庫版で完結して出て来た。読んでみるとこのチェーザレ・ボルジアの時代編で二人の時間旅行は終わってしまったらしい。当初の予定とは違う終わり方をしたように思われる。
第一巻の扉の壮大なイメージにわくわくさせられた通り、作者は多分二人に他の時代にもトリップさせるつもりだったんだろう。だから中途半端といえば中途半端な終わり方になってしまった。だが、もうこれで充分だろうと思う。歴史物を書き出すとかなり大きな取り扱い方をしないと面白くないし、この話は「バチカンまで何マイル?」というタイトルでもいいくらいボルジアをしっかり取り扱っている、単独の歴史漫画と言える。また別の旅は別の旅として違う物語になってしまうのだ。むしろ最初の恐竜時代はいらないくらいだ。あれはあれで短いドラマがオチまでつけて有って感動的だったのだけれど。
この現代人が過去に行くという設定は、川原泉にぴったりの手法による歴史漫画だと思う。過去ということは、きちんと歴史をお勉強した人にとってみれば確かな結果の既にある時空なのだ。「運命」が存在する、とも言える。もちろん何かの作用で歴史を変えてしまうということも漫画のテーマとしてはありえるが、そういったタイムパラドックスはここでは起こらない。いや・・・恐竜時代には起こったけれど、ボルジアの、人間の情念による、歴史の猛烈な勢いの前には、なすすべもなく立ち尽くす二人なのであった。
主人公達には、指輪のお陰でどんな言語でも解するという特典もあり、歴史好きな人にはうらやましい話だと思うが、歴史を安全な場所で目前に見るということはとても贅沢で夢のようなことだ。「歴史」と呼ばれるものは過去の事物を取り上げてする行為だと私は思っている(それを現在にどう結び付けるかは別として。)が、目前になまなましい歴史が展開しているという実感が存在するとしたら、それは閉ざされた空間の中にそれを見ているという矛盾があってこそ、川原流アイロニーを生じせしめるものなのかもしれない。すなわち、当事者にとってみれば批判している場合でないような事を、部外者(語り手および読み手)に当事者レベルで見聞させ、なおかつ部外者レベルでいちいち俗っぽく批判させるなどということは通常の歴史漫画や歴史小説にはすることができない。正統派にとってみれば、それはずるいぞというようなうらやましいことを川原泉はしているのだ。しかもうまい。川原泉が川原泉によってしか生み出せないキャラクターで以って語ってこそ見事に成功する。
ただ、ちょっと終わり方が雑だった印象が残らないでもない。これは執筆時の現実的な問題によるものなのかもしれない。
川原作品であるだけにどうも理屈っぽく紹介してしまったけれど(といっても川原泉は肝心なこと以外に関してしか理屈っぽくない。)この贅沢ワールドを気軽に堪能してほしい。この平和で純情で正直な現代人の姿は我々の心を代弁してくれているような気がするし、切羽詰まった悪の中でさえ純情で正直なルネッサンス人の姿は我々をほろりとさせる。平凡な言い方だが、その根底には、作者の、人間の愚かしさへの限りない愛情があるのかなという気がする。

初出:『花とゆめ』白泉社1990年19〜22号 、1991年1〜4・7〜8号


戻る
inserted by FC2 system