那須紀行

一日目
2004.10.9.sat

家族旅行で那須高原に行ってきました。しかし、出発は今年一番の規模という台風22号が東日本に接近していたちょうどその日。自動車で東北道を通って行くと、だんだん風雨が強くなって行きました。でもまあ、まだ大丈夫でしょうということで、サンバレー那須というホテルの、大きな温泉に日帰り入浴してきました。66のお風呂が有り、流れる温水プールまである、リゾート施設です。十月になってやっと水着が着られました(笑)
滝の有る露天風呂で、「この滝って水?冷たいなあ」と思っていたら、屋根の間から吹き込んでくる雨でした。。気付くと結構降ってる・・・。

それからすぐ宿に向かい、六時には食事、ごろごろテレビを見て過ごしました。外は雨、風がどんどん強くなります。
久々に日常を離れ、のんびりできました。


二日目
2004.10.10.sun

台風一過の青空を期待していたのに、山の中は雨。ご飯が八時からなので、ごはんを食べ、すぐ出発。何だか母方の先祖(?)らしい、那須与一関連の遺跡を見て回りました。平家物語に出てくる人です。屋島という、瀬戸内海の方で平家と源氏が戦った時、平家方の一艘の船に、一本の高い竿が立てられ、その上に緋色地に金の日の丸の扇が据えられました。船には一人の女性がどうよと手招きしております。寒い二月の北風が吹き荒れる海の上、源氏の武士達はその的の遠さと船の揺れに当然「これは無理」と思いますが、源氏の大将義経は挑戦しなければ武士の恥と、一人の弓の名手を呼び出します(ご自分は?)。それが那須与一でした。こう名誉の為に命をかけるのはヨーロッパでも日本でも騎士の特質なのかもしれませんね。彼は無謀なことと知りつつ、

「南無八幡大菩薩、別しては、わが国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の温泉大明神、願わくは、あの扇の真ん中を射させたまえ。」
と、遠い故郷、現在の栃木県になる那須の神仏に祈ります。そうして波風が静まった一瞬、見事扇を射落とし、敵味方の大喝采を浴びたのでした。

でも、与一が射たのは扇の真ん中ではなく、扇の要際一寸ばかりおいて・・・と、ちょっとはずれたところでした。それは、彼が撃ったのが先端の分かれた鏑矢だったため、扇を落とすには日の丸の真ん中でない方がよかったのでしょうね。それにしても、船に立っていた女性も結構恐かったのではないかと。息子の頭に載せたリンゴをも腕を鈍らさず射抜くウィリアム・テルだってこんな条件の悪さでは一発必中とはいかないでしょう。この度胸のある女性は誰だったんでしょ。

えーと。話が逸れましたが。とにかく、その那須与一の生まれた城、墓の有る寺などを回ってきました。那須には神社がとても多く、人口も少ないでしょうに、神社密度は高かったです。そして、稲荷神社がかなり多かったです。この辺りの稲荷の特徴なのか、鳥居のしめ縄がちょっとおもしろい形状でした。鳥居に掛かっている両端はとても細いのに、結びあっている中央が極端に太いのです。後で紹介する笠石神社のしめ縄はこのような形状ではありませんでした(後述、写真参照)。
神田城の鳥居与一の生まれたという神田城跡。堀を渡る所に鳥居が有る。
神田城の中土手で囲われた中は現在田んぼ。昔はこの田んぼのある所に城が有った。
神田城の稲荷城を取り囲む土手の上 に稲荷神社が有った。ここの狐は熊みたいな顔だった。

笠石神社それから、日本三古碑の一つ、那須国造の碑を見てきました。碑はお堂に入っていて、厳重に保護されています。見るには受付で管理人の方に申込み、まず歴史の講釈を受けます。
今から千年以上も前、那須の国の支配者が死んだ時、悲しんだ地域の人々が、生前の彼の偉業を称えるために石碑を作ったとのこと。なるほど、那須には至る所に石碑が建っていました。最近のものでも、開田記念の石碑や、歌枕の石碑や、近寄って見ていないけれどとにかくたくさんの碑がありました。昔から人々は石碑を好んだのでしょうね。特に他に記録媒体が無い時代、石に刻むことで記録を長期間残すという役割が重要だっただろうし、それからもしかしたら、「うたかた」の無常観というような日本的な考えと裏腹に、だからこそ形として何かを留めておきたいというどこか悲しい、最後の執着心がこのような形で現れるのかも知れないですね。そしてきっと、私の今書いているデジタル文書は、もって数年、小学校の時から何かと書きつづっている私の洋紙ノート類も、きっと私の寿命以上生き延びることは無いでしょう。(フロッピーやハードディスクの保存性は10年ほどと言われているらしい。 参照ECOMジャーナル第8号,2004.5,EC最新情報のページ※参照該当ページはリンク不可でした)石に刻んだからと言って必ず残るわけでもないけれど、少なくとも、希望を託せるだけの長さ分だけの固さを、石というものは持っているような気がしてきますね。

さて碑を管理している一家の方から聞いた、昔は近付いたら祟りのある森と恐れられて、人々が、石碑の放置されていた一帯に近寄らなかったという話はちょっとおもしろかったです。那須はとても広いけれど、静かで、行楽シーズン以外余所から人も来ず、寂しい場所だと思います。狐狸が出ても、木につないだ馬の足が呪いで折れても、おかしくないような不気味なものが、あの山の木々の間に潜んでいる気がして、わくわくします。
狐と言えば、同じく那須の昔話に「玉藻の前」という女性の話が出てきます。時は平安、京の都で或る院の寵愛を受ける玉藻の前という絶世の美女がいました。しかし彼女が傍に現れてから、院は病になり、何かに取り憑かれたようになってしまいました。それを怪しんだ陰陽師阿倍泰成は、玉藻の前を、尾の九本有る狐と見破ります。それはなんと、過去に大陸や天竺で妖姫に化けて帝を惑わし、国を滅ぼし民衆の大殺戮を行った後、今度は日本を滅亡させようと遣唐使に紛れて日本へ渡ってきた白面金毛九尾の狐でした。
殺生石の写真正体を暴かれた九尾の狐は逃げだし、遠く那須まで飛んできました。狐は那須の一族(那須与一一族の祖先?)須藤権守らによって弓矢で射殺されました。そして石となり、その呪いの毒で近付く生物を殺しました。それが「殺生石」です。のち源翁という僧により三つに砕かれ、毒はようやく減ったけれど、未だにわずかな毒を吐きだし続けているそうです。その殺生石は火山性の硫化水素や砒素などを吹き出す地域にあり、それらの有毒ガスが近付く生物を死なせていたというのが科学的な根拠で、石は那須町湯本に現在も有ります。

さてこの狐、現在那須の観光マスコットキャラクターとなっていて、一般公募された名前から「キュービー」と名乗っています(!)
ここにキュービーが載っています
私も「なすのすけ」という名前を応募していましたが、見事落選。でも、この狐は美女に化けていたとはいえ、男だと思います(マイ独断)。美女に「化けて」世を惑わすのは大抵男性的な存在、または男性的な性質だと思います(マイ偏見)。そもそも、ここで男をたらしこんだというのは、院に取り憑いて殺す、あるいは日本の中心を牛耳り人間の世を支配しようという目的の為の手段に過ぎません。ヤマトタケルが美女に化けてクマソを討ったように。何の脈絡も無くただ次々男を破滅させるだけならともかく、はなから「傾国」を企むなんて、悪意を持った「女狐」がそんな大それた事までするかなあと思うのですが。どうでしょう。だから、キュービーくんも、無理して「わたしは・・・」などとしゃべらないように!
しかし、さすがキツネの化けた玉藻は当時の日本女性だけあって、皇帝をそそのかして人身御供をした殷の妲己のようにはその表情が見えてきません。彼女が何をしたというのではなく、ただ彼女が来てから院が狐憑きになった→玉藻の前が妖しい光を発した→狐と見破られ、逃げる。という感じです。炮烙(ほうらく)の刑(油を塗った金属の柱を下から火であぶり、罪人にその上を歩かせる。その刑が見たいばかりに無実の人間を罪人に仕立て上げたという)なんてやっちゃう妲己に比べたら悪女ぶりの格が違う気がします。

玉藻稲荷神社 で、その玉藻の祭られている「玉藻稲荷神社」に寄りました。例の変わったしめ縄と、狛犬の代わりに棒をくわえたかわいい狐の石像が。個人的な感覚ですが、さすがに、稲荷は少々恐ろしい感じのする神社だと思います。鳥居の向こうに理性を超越した世界が広がっているようで。
稲荷きつねこの地に逃げ込んで蝉に化けていた玉藻狐が、池の水面に映った本性から変化を見破られ、射殺されたという伝説もあるそうです。その池も見ました。この話を聞くと、どうしても「狐サイズ」の蝉が木に止まっているのをイメージしてしまう私です。そりゃ見破られるって・・・でも、蝉を弓矢で射抜くというのも、さすが武士はすごい腕前ですね。また、九尾狐を狩る練習の為に犬に的を付けて追い回したことから、「流鏑馬」「笠懸」などと並ぶ鎌倉時代の代表的な武術練習法「犬追物(いぬおうもの)」ができたとされています(まさに殺生な)。でも、本当は昆虫を狙って撃つ練習の方が狐退治の役に立ったことでしょう。題して「蝉射物(せみいるもの)」。


鏡ヶ池←蝉に化けた九尾の狐がこの池の水面に映った姿で正体を見破られた、鏡ヶ池。

高舘城から見下ろす眺め ←那須与一の育った城、高舘城。山の中で、上ってくるのも大変です。よくもこんなところで暮らしていましたね。今はもう何も残っていませんが、高台から見下ろすと眼下に那須の国が広がっています。大きくうねる那珂川は何百年も変わらず流れ続けているのでしょうか。

しめ縄最後は那須与一の墓です。墓は、玄性寺の中に一族の墓と共に有りました。小さな池が有るひっそりとした寺ですが、立派に整備され、訪れる人も多いようです。しかし、墓の上には神社がありました。こちらも稲荷神社で、例の変わったしめ縄が。→

きつね←そしてきつねも結構かわいいです。親子でしょうか。このあたりはよほど狐が多いのか、そういう土地柄なのか、稲荷神社は多いですね。この神社に登る石の階段が、かなり滑りやすくて恐いので、気を付けましょう。筋の入った石材がいけないような気がしました。筋にそって滑るのです。横に滑るならまだいいのですが、落下方向へ筋が入っています。

墓→これが与一の墓の石塔。与一はちょっと変わった名前ですが、十一人兄弟の十一番目で、上から太郎、次郎、と数えて十あまり一、ということのようですね。

さて長かった一日も終わり(というか、余計な解説が多かった)。おやすみなさーい。 ポッポ


三日目
2004.10.11.mon

ワラビーっていうか、もう後はそれほど書くことはないのですが。
最終日はムツゴロウさんプロジェクトの、那須動物王国へ行きました。そこでは猫や犬と遊べ、さまざまな家畜を見ることのできる農園です。キャッテリアでふかふかの猫に触りました。ベンガル山猫もいて、楽しかったです。また、鷹匠ショーも見ることができました。ミミズク、鷹、ハヤブサといった猛禽類を、呼んだら飛んでくるようにしつけて、飛ばしていました。観客すれすれを飛ばさせられたりしていました。鳥はかわいいですね。
何故かワラビーもいましたよ。餌を狙って手に顔を近づけてくるので触ろうとすると、嫌そうな顔をして体をのけぞらせるのが憎ったらしいです。でも手応えのいいふかふかネズミ、という感じでした。鹿も寄ってきましたが、やはり餌目当てでした。なんじゃ〜。

というわけで、中途半端な那須紀行はこれでおしまいです。
また変わった旅行したら何か書き残しておこうかなと思っています。

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